ケルクショーズ・イリヤ 3号店(Quelque chose, Il y a - troisième)

Il solito tran tran(でも明日は何か新しいことを考えるだろうか……)

海で一緒になにを撮る(モデル:千代恋あめさん)

 

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 こどものときの私にとっては、海というのは、『ドラゴンクエストモンスターズ2』の大王イカがいるような、『スーパーマリオ64』の巨大ウツボがいるような、『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』のゾーラがいるような、モンスターや宝箱と出会う、冒険的なところだったと思います。

 

 一方で、いまの私にとっての海というのは、クーラーのきいたカフェやレストランやホテルからながめるものです。あまり近づかず、遠くから望むもので、できれば「ブルー」ということばが似合っていてほしい、そんな幻想的なものです。

 

 もちろん現実的な話をすれば、家族行事で海水浴場まで出向くこともありますし、カニが好きなのでラグーンも潮だまりも居心地がよいですし、このポートレイト撮影をするために船虫が大量にうごめいている磯も通りぬけました。

 

 それでも私が「海」の話をするとき、それはどこか遠く、幻想的で、冒険的で、宝箱的で、なにやら不可侵なイメージを心に抱きます。

 

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 海は、性別も年齢も関係なく、だれにとっても、いつになっても「私にとっての」という言いかたで語ることができます。

 

 ダイビングをするひと、サーフィンをするひと、フィッシングをするひと、スタンドアップパドルで海の上を歩くひと、ヨットに乗るひと、水生生物とたわむれるひと、水鳥を観察するひと、魚をつきにくるひと、魚を食べにくるひと、海水浴するひと、日光浴するひと、日焼けをするひと、写真を撮るひと、スケッチするひと、ナンパをするひと、花火をするひと、科学実験をするひと、海の家で稼ぐひと、焼きそばを食べにくるひと、ビールを飲みにくるひと、ライフセーブするひと、砂遊びするひと、マルセイユの地中海を思うひと、リアス式海岸の荒波を思うひと、水平線を望むひと、瀬戸内海を感じるひと、小宇宙と一体化するひと、新しい恋をするひと、古い恋を捨てるひと、ばっきゃろーとモラトリアムを叫ぶひと、如月小春さんの『doll』のように入水自殺するひと、折れた心をいやしにくるひと、思い出を作りにくるひと、都会の喧騒をのがれにくるひと、誓いにくるひと、ツイッターをするひと……。

 

 海という概念は、漠然としたなにかではなく、じぶんと海との関係のことを言うのでしょう。無数に思えるほどの「私と海」があり、そのすべてを包括するのが「海」という概念なのです。

 

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 海ということばの字源は「毎=薄暗い」にあたります。海という場所は、当然かもしれませんが、暗いのです。だけど私たちは海が暗いからこそ、そこになにかのイメージを投影することができます。海に潜れば、孤独になることもできるし、すべてのものと結ばれている感覚になることもできます。海は空っぽだから、逆になんでもよいのです。無限の深み、どこまでも続くひろがり、海はどんなに固い信念も空論にもどし、どんなに決まりきった現実も空想にかえてくれるのです。

 

 「冒険とイマジネーションの海」というのはディズニーシーのコンセプトで、それはきっと空論になった信念をいちから再出発するための冒険と、空想になった現実を再構築するためのイマジネーションが海にあるということなのだと思います。こじつけですが。

 

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 海にくれば、被写体も撮影者も、冒険と空想のモードのなかでなにかを海に投影しているものです。それはきっと特別で、神聖で、〈ふだんとはちがったなにか〉と呼べるものすべてなのかもしれません。とにかくいろいろなものが、把握できないレベルで、その場で、飛び交っているのです。

 

 私の見ている海と、モデルさんの見ている海、そのどちらも一枚の写真のなかに収めたい。私の冒険とあなたの冒険。私の空想とあなたの空想。荒れるか穏やかか、冷たいか暖かいか、孤独か抱擁か、ちっぽけになるか宇宙になるか。水中から見る水面、水面から見る水中。海から空を見たらなにが見えるだろうか――その景色は終わっているのか始まっているのか、始まってさえないのか、海に関する心の不可思議な夢物語を水に溶かしながら撮影しておりました。

 

 「わかりやすいことば」で海を語りきれないのとおなじように、「わかりやすい写真」で海を写しきることはできないのかもしれません。なにを撮る? だれを撮る? だれと撮る? なにを思う? なにを感じる? なにを海に話す? なにを海に答える?――それはとんだ宗教的な話かもしれませんが、これでもかと言うほど海にたくさんのことを考えさせられ、カメラのバッテリーとともに私の思考体力も尽き、とても成長できたように感じました。

 

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 空っぽの海は、どこまでも私のために響いてくれたような気がします。最後になりますが、リンドバーグさんの『海からの贈り物』(The Gift from the Sea)に、このような一節がありました。

 

Rollers on the beach, wind in the pines, the slow flapping of herons across sand dunes, drown out the hectic rhythms of city and suburb, time tables and schedules. One falls under their spell, relaxes, stretches out prone. One becomes, in fact, like the element on which one lies, flattened by the sea; bare, open, empty as the beach, erased by today’s tides of all yesterday’s scribblings.

(寄せては砕ける波や、松林を吹き抜ける風や、鷺が砂丘の上をゆっくりと羽ばたきながら飛んでいくさまが、都会やスケジュール帳の気違いじみたざわめきを消して、私もまたその魔術にかかり、ただただそこに横になったままなのである。 つまり、横になった私は海によって平らになった浜辺とひとつになり、浜辺と同じようにどこまでも拡がる空っぽになり、今日の波によって昨日の痕跡すべてを洗い去るのである。)

 

 ただただ偉大なものに触れてしまったという実感、宛先不在の漂流物を受け取ってみる郵便的な実験、大自然のなかに入ってみると、じぶんがどれほど小さな動物だったかを理解します。都会やスケジュール帳の気違いじみたざわめきを失ったとき、じぶんという存在をいつもよりはっきりと心得ます。

 

 

モデル:千代恋あめ

写真:逢坂千紘

ロケーション:江ノ島

天候:晴れ