ケルクショーズ・イリヤ 3号店(Quelque chose, Il y a - troisième)

Il solito tran tran(でも明日は何か新しいことを考えるだろうか……)

冨安由真「くりかえしみるゆめ Obsessed With Dreams」展、私の自動化を摘発する靴のなかの小石の経験

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 私にも〈くりかえしみるゆめ〉という概念がある。たぶんあなたにもある。

 

 それが展示会になったのだから、ほんとうにびっくりした。ツイッターには感想を書いていたけど、ブログには書いてなかったので、あらためて記しておく。なぜなら、美術手帖さんのレビューがまるでリマインドのように公開されたため。

 

 

 〈くりかえしみるゆめ〉というのは、履物のなかに入っているざらざらした石(scrūpus)のようなもので、私の人生をちくちくとさしてくる。展示会から数ヶ月たって、そういうことを思った。

 

 「scrūpus」というラテン語は、のちに「良心/道徳心」ということばになった。靴のなかに入っている小石が「良心」というのは、だれが考えたのか絶妙な比喩である。やつらはちくちくとさしてくる。

 

 「良心」ということばが良い印象をもたなくなってくるように、〈くりかえしみるゆめ〉というのも良い印象ではない。冨安さんも「obsessed」ということばを使っているように、きらきらした「夢」ではなく、ちくちくと確実に迫ってくる〈ゆめ〉を表現しているのではないかと思う。

 

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 〈くりかえしみるゆめ〉は、それ自体がひとつの存在感をもっているのに、どこか切り離されたところにあるように感じる。迫ってくるのに、姿は見せないような。あるいは無限に私に迫れるものなのかもしれない。

 

 「迫る」という認識は、「たどり着く」という認識への感情や感性を最大化するもののような気がする。楽しい予定に迫れば期待感は最大化するし、嫌な予定に迫れば絶望感が最大化する。その当日の感情が比べ物にならないくらい。

 

 だとすれば、〈くりかえしみるゆめ〉の切迫性というのは、日常というクローゼットに押し込まれゆくありふれた毎日の感情を最大化することではないのか。反復する生活自動化の感情化ではないのか。

 

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 それをさらに抽象化するとすれば、綿密に観察される(observé scrupuleusement)ことで日常性を失うことだと思う。例えば、私の知り合いには「見られると卵がうまく割れなくなる」ひとがいるし、私自身もOJTとかで「見てるからやってみて」と言われると途端にできなくなる。

 

 自意識が強いだけと言われればそれまでだが、何かが私のことを綿密に観察していると思うと切迫性を感じるし、感情がふくれあがっていて日常とか習慣といったものが両手からこぼれ落ちてゆく。

 

 〈くりかえしみるゆめ〉とは、綿密観察性をもったゆめのことである。私の日常自動化を不意に指さしてくる他者である。私の懶惰な習慣化を摘発してくる外部である。

 

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 ――と、むりくり再表現してみた。じぶんではそこまでしっくり来ていないけど、言いたいことの半分くらいは言えた気がする。とにかく、靴のなかに入っている石だってことが言いたかった。

 

 展示会を観にきたひとがたくさんいたので、私自身の繰り返し見る夢に近い感じになっていて恐ろしくも楽しかった。つまり、知らないひとたちなのに、信じられないほど文脈を共有していて、まるでずっと友だちだったかのようにふるまう、私の夢のなかにいつも出てくる〈あのひとたち=匿名者たち〉が、そこに実現しているようなインスタレーションだった。