ケルクショーズ・イリヤ 3号店(Quelque chose, Il y a - troisième)

Il solito tran tran(でも明日は何か新しいことを考えるだろうか……)

マウンティングについて(1)これだけ多くの選択肢があって賢く選択したのだから中吉ぐらい選べているだろうという思い込み

 2014年、『女は笑顔で殴りあう:マウンティング女子の実態』という書籍が出版されたり、「ファーストクラス」というマウンティング女子のテレビドラマが放映されたり、ハフィントンポストから「人はなぜ『マウンティング』をしたがるのか」という記事が公開されたりした。

 

 あれから4年、この一種の流行はいまだ落日することなく続いている。それはなぜかをすこしだけ考えてみたい。だれかのなにかの参考になればうれしいです。

 

 マウンティングは、よく「劣等感のあらわれ」と分析されるけれど、どちらかと言えば「正解だと思って選んだ選択肢が正解ではないこと(正解ではなかったこと)への不安の裏返し」のように思える。

 

 情報がオーバーフローになり、たくさんの選択肢が目の前に提供される時代。ちょっとやそっとのことなら、すぐに正解を選べるとなんとなく信じている。しかしながら、逆に、その選択肢のなかに正解がなかったときに、選択肢の棄却(全拒否)をするのがむずかしくなっている。

 

 それは、言い方を変えれば、なんとなくの選択肢を強制されているということでもある。うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、という極端な選択肢ではないにせよ、凶か、大凶か、やや凶か、末凶か、弱凶か、大吉風な大凶か、低価格の凶か、コスパのいい中凶か……みたいな選択肢が広がっている。

 

 しかし、インターネット検索を駆使して、まとめサイトを上手に利用して、口コミサイトで生の感想を入手して、横のつながりからアドバイスをもらって、万全の状態で選択肢を選べば、きっと中吉くらいは選べているだろうと思いこんでしまう。大した選択肢がそもそも用意されていないのに、賢く選択したから中吉くらいだと想定してしまう。

 

 あえてここで「正解」ということばを用いるなら、全部の選択肢に"NO"を唱えることが正解なときも(よく)ある。メーテルリンクのロワゾブリュではないけれど、幸せの青い鳥は「賢く勇敢なサーチの圏外」にいたりする。

 

 劣等感のあらわれという分析もそうかもしれないが、私からすれば、マウンティングは〈中吉願望と賢い選択の思い込みと、そのシワ寄せと、その不安〉に見える。用意された青い鳥と、用意されたライフハックでは、中吉になれない時代になっているとも言えるだろう。

 

 じぶんの選んだ(選ばされた)選択肢のバリューのシワ伸ばしをするために、SNSを利用して選択結果を加工したり、自慢風のテキストに託したりするのではないか。

 

 選択肢を自前で用意できなくなった時代のパラドキシカルな不幸が、それぞれの選択肢の上書き行為を加速させているのではないかと思う。テンプレート的な選択肢しか与えられないなかで、いかにそのテンプレート的な選択肢が素敵だったのかを上書きする。

 

 うんざりするほど誰もがやっている平凡な選択を、あたかも奇跡であり至高だったように加工することで、大吉や中吉に寄せていく。結婚式にせよ、観光にせよ、ショッピングにせよ、子育てにせよ。

 

 そこから降りるには、自前の選択肢で生きることだろうと思う。『女は笑顔で殴りあう:マウンティング女子の実態』のなかでは「聖人」というキャッチーな表現だった。著者の二人は聖人になれていないと自白していたが。

 

 あらゆる選択肢が平凡になりゆくなかで聖人になるには、相互聖人ができる相手を見つけるのがベターなのではないか。つまり「あえてSNSに共有しない閉じた関係」をやれるひとがいれば、選択肢がどんなに平凡でもふたりで楽しめればそれでいいことになる。

 

 想像してもらいたいのは、中学生のときに内緒で付き合っていた恋人と、花火大会に行くという平凡な選択をしたときの、なんとも言えない幸福感である。

 

 自前の選択肢を持つ(自前の選択肢に気づく)か、あるいは平凡な選択肢を閉じたところで楽しめるひとを見つけるか、このふたつの方向性がマウンティング時代の生きやすさにつながればさいわいである。