ケルクショーズ・イリヤ 3号店(Quelque chose, Il y a - troisième)

Il solito tran tran(でも明日は何か新しいことを考えるだろうか……)

エウダイモニア、衣食住を消しながら判読可能にしておくこと

 イーアイデムさんのオウンドメディア「りっすん」に、赤澤えるさんのインタビュー記事が載った。

 

 

 

 彼女のことばに耳を傾けていると、じぶんの衣食住に関する観念が洗濯槽のなかでぶん回されているような気分になる。一着一着に名前の付いた服をつくる、その意義について尋ねられて、こう答えた。

 

私たちの作る服は、捨てられない服を目指しています。捨てたいと思われない服、手離すときが来ても誰かの手に渡るような服でありたい。手離す手段はたくさんあるけれど、できるだけ「どういう思いで買って、どういう日に着ていたのか」が伝わる方法で、次の人に受け継いでほしい。「LEBECCA boutique」の服に名前とストーリーが付いているように、どんな小さなことからでも“大事にしてもらえる服作り”を実現していけるんじゃないか、と。それが、今の私が考える“服を作る意義”に直結しています。

 

 同社の「earth music&ecology」のキャッチコピーも、児島令子さん(2011)が書いた「あした、なに着て生きていく?」というドキッとするものだった。

 

 衣食住というのは、それ単体で見ると固着した機能のようにも思えるが、当然のように私たちの今日や明日の大事な部分でもある。近藤麻理恵さんの『人生がときめく片づけの魔法』、中村祐一さんの『幸せを呼ぶスマート洗濯』、あるいはgoodroomさんの「goodroom journal」、パナソニックさんの「すむすむ」などにふれると、衣食住と人生の幸福(エウダイモニア eudaimonia)がつながっていることを改めて知ることができる。

 

 ただ、不思議なもので、ときめいてばかりが人生ではないし、洗濯するごとに幸福では逆にそれが味気なかったりするし、いつどんな服を着ていたのか常に意識するのは疲れたりする。衣食住のエウダイモニアは、ときどき消えてもらって、それでもやっぱり見えているところにあるのがよいのかもしれない。

 

 スピヴァクによると、デリダは、エクリチュールのことを「存在を消しながら判読可能にしておく振る舞い gesture effacing the presence of a thing and yet keeping it legible」と呼んだ(『デリダ論』)。衣食住の感覚も、これに似ていると感じる。

 

As I have argued, the name of this gesture effacing the presence of a thing and yet keeping it legible, in Derrida’s lexicon, is ‘writing,’—the gesture that both frees us from and guards us within, the metaphysical enclosure.

 

 ハタチくらいのときに、日常ってブラックホールだなあなんてことを思っていたが、もっとパラドキシカルなものなのかもしれない。あるしない、ないしある。消されてもなお読めるもの。そのぐらいにしておくのが衣食住で幸福を感じられる。私はね。

 

 私のなかにある「丁寧な暮らし」への違和感は、きっとここにあるのだろうと思う。丁寧な暮らしの丁寧さを意識してしまっては、それ自体が抑圧的・官僚的になってしまう気がする。ただ、丁寧な暮らしをしたいという気持ちもある。その「ちょうどよさ」にたどり着くのが、「消しながら判読可能にする暮らし」というものかもしれない。

 

 そのなかで、やっぱり、赤澤さんや近藤さんのようなかたの持っている、ひとりでは手仕舞うことのできそうにない力強さというものを、こういったかたちでちょっぴりいただくことが重要なのかなと思った。彼女たちのある種のパワーが、オーバーフローで消されていく毎日の衣食住のエウダイモニアに効いてくる。