ケルクショーズ・イリヤ 3号店(Quelque chose, Il y a - troisième)

Il solito tran tran(でも明日は何か新しいことを考えるだろうか……)

YUtuKI『どうか今日は…』、咳嗽する夢と恐縮する現実のあいだで

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YUtuKI『どうか今日は…』140mm*180mm*16mm アクリル

 

 デザインフェスタ(vol.48 1日目)で、B-35にブースを構えていたYUtuKIさんから購入した絵画『どうか今日は…』。少女の切迫したドリームスケープ。

 

 私は、ほとんど夢をみない子どもだった。その代わり、現実もみなかった。よく「子どもは子どもなりに考えている」というが、私の場合は考えることもせず、ただ「子どもなりにやりすごす」ことが多かったと思う。

 

 だからこそ、YUtuKIさんの描くものに引かれるところがある。きっとこれはずっと夢をみてきたひとの芸術で、夢のなかにいる「じぶん」のしあわせを願ってきたひとの表現だと感じた。この絵画の少女は、夢のなかのじぶんに向けて祈っているような気がする。「今日は良い夢が見られますように」ではなく、じぶんが眠ってしまったことで悪夢に巻き込まれる「そっち側のじぶん」に祈るような印象がある。

 

 眠ってしまっているからなにもできない。明晰夢をみようがなにもしてやれない。悪夢は悪夢だし、夢に宿ってしまった「形」を壊してやることはできない。空想はキレイなものばかりではなくて、むしろ人間のきたないところを映し出す。現実で恐縮したぶぶんがやけに拡大されて映る。その心象映像に、夢は咳き込み、痰を吐き出す。

 

 メルヘンチックで、甘美で、幻想的で、切なげで、砂糖みたいな絵のなかにしっかりと描きこまれた心理のようなものが、この絵画の魅力をいっそう引き立てていると思う。睡眠は、夢と現実のどちらにもいる〈わたし〉のあいだで媒介となっていて、眠ることでふたつの世界の〈わたし〉の心理が接して、重なって、寄り添う。

 

 英語では「心の友」のことを「second-self/二番目の自己」とするけれど、まさにそれにひとしい。夢のなかの断片的な〈わたしたち〉は、複雑で辛辣な現実を生きるじぶんとつながっている心の友だちである。それに対して祈ること、あるいは結局、祈ることしかできないこと、それがこの少女の眠る前の最後のあがきなのかもしれない。

 

 アリストテレスは「夢は睡眠のファンタスマだ」と言った。私にとっては夢ではなく、眠る前、心に浮かんでくる曖昧なことばだったり、あるいはなにかのボヤけた機序だったりが睡眠のファンタスマである。たぶんひとによっては、外の風のサウンドスケープだったり、ナイトパネルのベッドランプだったりするんだと思う。

 

 エドガー・ケイシーだったか、「夢は明日の問いに対する今夜の答えである/dreams are tonight's answers for tomorrow's questions」ということばがあった気がする。そういった未来からの問いかけに、過去からの類似性で答えを返そうという心理も、夢にはあるのかもしれない。

 

 ある意味での夢に対するあきらめと、夢のなかの〈わたし〉のしあわせをあきらめない心理のようなもの、勝手な想像だけれど、それでもどちらも私にはないもので、すごく魅力的にみえた。来月、個展もやるらしいので絶対に行こうと思う。