山田尚子監督『リズと青い鳥』、ずっとずっと一緒だと思っていたふたりの希望的な抹消線

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 『リズと青い鳥』を観てきた。一回目は御徒町のTOHOシネマズで観たのだけれど、私生活が忙しすぎて感想を出力する間もなく消費されてしまった。

 

 今回はシネマシティで極上音響上映があるとのことだったので、シネマシティで観た。最高だった。正直、「リズと青い鳥は最高だし、シネマシティも最高」以外に書くことないのだけれど、考えたこともなくはないので書き記しておこうと思う。

 

 リズと青い鳥は、ダブルヒロインの関係の性質が、「A∩B=∅」から見え消しに変わっていく過程を描いたアニメーションだと思った。というか、それ自体はアニメーション内でしっかり説明されており、それを至極のクオリティで観させていただいた、という感じだった。

 

 印刷用語だと「見え消し」、哲学だと「抹消線」などというけれど、わざともともとあったものを透かすように消すところに非常に強い意図を感じた。

 

 それは希美やみぞれのなかにずっと残り続ける痕跡、たとえば希美にとっては、予期していなかったみぞれのオーボエの才能に傷ついた痕跡、みぞれにとっては、肝心なところで歩み寄ってくれない希美の無信頼に傷ついた痕跡を強調するものだろう。

 

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 メリーバッドエンドとかオープンエンディングなんて概念もあるけれど、リズと青い鳥は「見え消しエンド」である。なかったことにはできない「私は傷つきました」という痕跡を、この先どうやって抱えながら生きていくのか。ひとによってはハッピーエンドで、ひとによってはバッドエンドで。

 

 許すというのは、実際のところ我慢を受け入れるという意味である。帳消しではなくて、抹消線が入っただけのこと。そこには〈線/die Line〉の取り扱いがある。ふたりの間に入った新しい線に、どのような意味を与えるのか。そこには追加のコミュニケーションが必要である。

 

希美:私、みぞれのソロ完璧に支えるから。今は……ちょっと待って。
みぞれ:私も……私も、オーボエ続ける。

 

 希美は正式に時間をもらう。みぞれはじぶんの意志をつげる。抹消線の我慢を互いが前向きな態度で受け入れる。ふたりの時間と空間がやっと交わる。ふたりを分かちていた憎き線が、ふたりを結びだす。指揮者のいらない合奏がはじまる。ようやく同じ線について、同じ温度で向き合いはじめる。

 

 これはみぞれの望んでいたことだろうな、と思って泣いた。

 

 日常のうちに当然のように生じる「パート練(フルート/オーボエ)」という線によって区切られてきたみぞれは、それについてもっと希美と一緒に考えたかっただろうと思う。だからこそ「ダブルリードの会」なんて線引きはお断りだし、興味がない。

 

 逆に希美は「才能/凡人」という線にひどく傷つき、できればずっと触れたくなかっただろう。じぶんの「いいなあ」と思った楽曲で、それを見せつけられることになるとは思っていなかっただろうし、進路選択というじぶんがリアリティを感じられないもののなかで突きつけられるとは思ってなかっただろうと思う。

 

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 線は結ぶこともあれば、区切ることもある。パート分けという線に区切られ、社交性という線に仕切られ、それでも朝早くの合奏室では示し合わせずとも合奏がはじまる。五線譜という線は、ふたりを結んでいる。そして最後は、抹消線という線がふたりを前に歩かせる。

 

 さまざまな線が、関係や関係性を切り刻んだり、結びつけたりする。その数が増えていけば行くほど、「切っても切れない」仲になる。しあわせそうなカップルほど、そこには数えきれない線がある。

 

 それは浜崎あゆみさんの「appears」の歌詞につながる部分だと思う。秘密の隠し事のようなわざとらしい編集物でなくとも、ほんとうのことはふたりしかしらない、という事実の共有と蓄積が関係をカラーリングしていく。

 

 見え消しにされた「disjoint」について、希美のほうから歩み寄ること。これは大人の階段をのぼることであり、作品的に言えば、響けユーフォニアムで登った青春の階段をおりてゆくことでもあるだろう。

 

 最後のみぞれの「ハッピーアイスクリーム」には、青春の階段をおりるふたりの姿が映った。