ケルクショーズ・イリヤ 3号店(Quelque chose, Il y a - troisième)

Il solito tran tran(でも明日は何か新しいことを考えるだろうか……)

「ウエノ・ポエトリカン・ジャム6〜はしれ、言葉、ダイバーシティ〜」レビュー 詩と、お金と、アウシュビッツの短歌

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 「詩は金融市場とは無縁ですが、詩をお金の力が届かない聖域に祭り上げるのも、誤魔化しのように思えます」――谷川俊太郎さんは自身のブログでそう語った(『立て続け』)。このことばを聞いたときから、私のなかに「詩」と「金」のふたりがずっと居残り授業を受けている。

 

 そして、先日、谷川俊太郎さんが出演する「ウエノ・ポエトリカン・ジャム6」にクラウドファンディングでドネーションをした。2daysを無料開催するためのカンパだった。居残り授業の学生は、「詩」と「無料開催」と「寄付」の三人になった。余計にわからなくなった。

 

 それはそうと、今日が開催日1日目だったのでお客さんとして参加し、中盤から後半にかけて詩やラップのライブを堪能してきた。ざっくばらんに言えば、全ステージがリアルな詩であり、最新の詩だった。

 

 それは「ポエトリカン」というキーコンセプトによる力もあるのかもしれない。

 

 これに関しては説明がすこし長くなる。もともとシカゴでマーク・スミスさんによって競技化された朗読(poetry reading/spoken word)が「ポエトリー・スラム」(poetry slam)と呼ばれている。ポエトリー・スラムは、朗読のバトルと言えば早いが、そこには自身のリアルな体験や満たされない思いの嗚咽が含まれている。

 

 そのポエトリー・スラムが行なわれている場所のひとつでもある「Nuyorican Poets Cafe(ニューヨリカン・ポエツ・カフェ)」から名前をとっているため、生の詩、リアルな詩というものにこだわっていると感じる。私の好きな歌人・東直子さんも、ふだんのスタイルではなく、個人の体験をもとにして詠んだ短歌を披露していた。下の画像は文月悠光さん、鋭利な詩だった。

 

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 上野駅を降りて、栄えているほうとは反対に足を向け、秋口に蓮の葉が群生している大きな公園を外周し、上野のすみっこにある水上音楽堂へたどり着いて、ステージの上で現在的な詩をこの世のなにかにぶつけようとあがいている表現者たちと出会う。詩というものをいつも求めているひとも、ときどき詩を堪能するひとも、なんとなく立ち寄ったひとも、大人も子供も、ここで気軽に詩の現場と出くわす。

 

 できるだけ安く気軽に出会ってもらえれば、物販にも手が出やすいし、「もう一度、あの詩を!」という気持ちにもなりやすい。1回だけ高いより、3回も4回もお金を払おうと思ってもらえるほうがいい。長い目でみれば詩のマネタイズにつながっている。

 

 「ウエノ・ポエトリカン・ジャム6」には複数のとらえきれない空気があった。それぞれの詩人がじぶんのためにつくりだした〈詩〉のための枠組みを、それぞれがわざと侵食し、それをひとつのシーンとして落とし込む。

 

 GOMESSさんが「俺は俺のリズムを押しつけない」とすごんでみせるように、小林大吾さんが「ウエノ・ポエトリカン・ジャムがひとつの言葉だ」と描写したように、相対するそれぞれの〈詩〉の構造的なスタイルが、このイベントのなかで崩壊しながら構築されていたと思う。

 

 ニューヨークの詩やラップは、どちらかというと生命や自己存在の危機感が社会と直結している。おそらくそれはアメリカンドリームの影を反映したり、貧困と軍役と教育が直交している部分だったり、イラク戦争、9.11を直視するなかで醸成される思考の勘のようなものだろうと思う。一方で、私が日本の詩に漠然と感じているのは、それぞれの心の殻体を護ろうとする精神防衛的な危機感である。

 

 どちらがいいとかわるいとかではなく、おそらくだれかが日本の詩というものを、内面の特権から引っ張り出そうとしているのではないかと感じる。谷川俊太郎さんが「詩を金の力が届かない聖域に祭り上げるのは誤魔化しのような気がする」と仰るような、詩の取り扱いにおけるひとつの欺瞞をあばこうと動いているのではないかという気がしている。

 

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 そういう意味で言えば、第五部に出演した鳥居さん(上の画像、壇上中央)は、日本人にとって遠くにある大きくて大切な内面と社会構造について――ニューヨーク的なものとはまったくちがうやりかたで――訴えかけていたと思う。

 

 思考の脈絡を追おうと思っても差し出されることばが不定貫でわかりにくかったので(おそらく鳥居さん自身のなにかしらのためらいがあったので)、はっきりとは申し上げられないが、「蝶々、蝶々、菜の葉に止まれ」のスペイン民謡とアウシュビッツ収容所の関係、短歌と君が代の関係に何度も何度もアンダーラインを引くようにして観客に問いかけていた。私たちが透過させてしまっている大きな大きな欺瞞や、そういった大きなものへの思考をうながしてくれた。

 

 詩人やラッパーという特殊な存在者たち、なおかつ伝統のあるイベントで、主催者や責任者はさぞかし骨をおっただろうと想像にたやすかった。だけど、パンフレットやフライヤーは私の見回ったかぎりひとつも落ちていなかった。運営側の努力が、客席において結実しているひとつの証左のようなものだろうと深く深く感じる。

 

 明日は2日目――私は行かれないけれど、詩の詩としての成功を祈っている。